COLUMN Reika Saito / Israel Media
COLUMN

Reika Saito / Israel Media

2019年06月07日掲載

イスラエルの文化-第二の国歌といわれる「黄金のエルサレム」

あまり知られていないこともしれませんし、逆によく知られていることかもしれませんが(最近イスラエルのことはよくメディアなどでも取り上げられていますので、いったいどの程度のことが標準的に知られている事柄なのかがもはやわからなくなっています。)、イスラエルはかなりエンタメが豊かな国です。

音楽、ダンス、映画・演劇・・・、色々と素晴らしい(クオリティが高い)ものがあります。

音楽について言えば、イスラエルには、クラシック音楽は当然、ユダヤのフォルクローレ、アラブ音楽、アフリカ音楽、ジャズ、ポップスその他、日本の演歌みたいなものまで、多くの素晴らしいものがあります。

イスラエルの第二の国家「黄金のエルサレム」

 

それらについても、追々紹介していきたいと思うのですが、このコラムで以前、イスラエルの国歌であるハティクバについてご紹介しましたので、今回はまずはそれに寄せて、第二の国歌と呼ばれている有名な歌(イスラエル人でこの曲を知らない人は誰ひとりいないでしょう!)―「黄金のエルサレム」ヘブライ語では「ירושלים של זהב‎」(Yerushalayim Shel Zahavと読みます)―をご紹介したいと思います。

イスラエルで第二の国歌と呼ばれている有名な歌「黄金のエルサレム」

この歌は、イスラエルが誇るシンガーソングライター・詩人のナオミ・シェメルが作った歌なのですが、これもハティクバとテーマ被りで、エルサレムへの帰還を2000年もの間望み続けたユダヤ人のエルサレムへの憧憬を、エルサレムの美しい情景の描写にのせて謳うものです。

「黄金のエルサレム」が誕生した所以

ナオミ・シェメルがこの曲を書いたのは、1967年の9回目の独立記念日に開かれたイスラエル歌謡祭のためでした。当時、旧市街を含むエルサレムの東側はヨルダンによって支配されていました。

ユダヤ人は旧市街及びエルサレムの東側に入ることを禁じられ、元々そこにいたユダヤ人たちは家も家財も失って難民状態に陥ったわけです。追われたユダヤ人たちは、旧市街に戻ることも入ることも許されず、神聖とされていた多くの場所の多くも破壊されてしまったのがこの時代です。

イスラエル国防軍の兵士を鼓舞する歌に

さて、この歌が書かれたわずか3週間後に、イスラエルは6日間戦争に突入します。

その6日間戦争のときに、イスラエル国防軍IDFの士気を高めるのに一役買ったのがまさにこの「黄金のエルサレム」でした。当時は、ユダヤ人とアラブ人との対立が激しく、エルサレムについて歌うことは緊張をはらむことでしたが、戦争になったあとにおいては、まさに兵士を鼓舞する歌になったということでしょう。

1967年6月7日、イスラエルは旧市街をヨルダンから奪還します。
旧市街にある「嘆きの壁」(ユダヤ教徒にとって最も神聖な建物であるヘロデ王時代のエルサレム神殿の一部、といっても、神殿の外壁のうち辛うじて現存する部分のみ!)に、落下傘部隊(IDFの最優秀部隊の一つ)が降り立った際、彼らが声高らかに歌ったのが「黄金のエルサレム」だったと言われています。

ナオミ・シェメルにより「黄金のエルサレム」第4の歌詞が誕生

ナオミ・シェメルは、この兵士たちの歌声を聞き、第4番の歌詞を書き加えたそうです。

この第4番は第2番に呼応していて、イスラエルが東エルサレムを奪還したことによって、エルサレムが再び活気を取り戻し、ジェリコが再び通行可能になった喜びを謳っています。

2番
どうして水ためは枯れてしまったのか。マーケットには人っ子一人いない。
誰もいにしえのエルサレム、神殿を訪れない
岩山の洞窟には風がうなり、
誰もジェリコを通って死海に行くことはできない。

4番
我々は水ために、マーケットに、そして野原に帰ってきた
つのぶえが、神殿の丘に、エルサレムに、響き渡る。
岩山の洞窟には、何千もの太陽が輝き、
私たちは再びジェリコの道を通って、死海へ行くのだ!

このように、心をひきつける哀愁漂うメロディーと裏腹に、割と政治的なことが盛り込まれている「黄金のエルサレム」なのですが、聞いてみたい方は、Youtubeで探してみてください!

ナオミ・シェメルやその他のユダヤ人歌手による素朴な旋律バージョンもありますが、私としては、オフラ・ハザが歌うこちらエキゾチックなアラブ調バージョンのほうを聴いてしまいます。

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